人が自信たっぷりのビッグマウスで演説していると
すごく注目度を高めるし、みんなの意識下にしっかりと根付く。
そして時には、それが正しいのだと思いこんでしまうことも。
昨日話した「作品愛における自信」というのも
実はこの「はったり」ともとれる自信が大事なのかもしれない。
自分が、さも凄いことなのだという口調で語っていたら
それを聞いてくれた人は、素直にすごいじゃんって思ってくれたり
あるいはすごいような気がしてきたり、それを応援したくなったり
そういったプラスの思考が働くような気がした。
実際、生放送をしているときの私はそうだったように思う。
坂を降りれるようになっただけで、これすごくね!?って言ってた気がする。
楽しそうにしてる人の側にいたほうが、誰だって楽しいものだ。
いつも、ちゃんと、楽しい。
この、どこここのキャッチフレーズを忘れるところだった。
このフレーズはもはや、どこここの掲げるものに限らず
私の人生のモットーになっている気がする。
日頃からこれを守れないからこそ、せめて忘れないでいようと思うのだ。
些細な事で苛立った時、些細な事で心無いことを言ってしまった時
いつもこのフレーズを思い出しては、反省している。
自分が傷つきたくないから、相手を傷つけないだけ。
自分が褒めてもらいたいから、相手を褒めているだけ。
たとえそんな偽善の心を裏に持ち合わせていたとしても
それはそれで、きっと素晴らしいことのはずだ。
でもね、そうやって少しずつ自分の中の生命を与えていく事の喜びを知ることが出来ればいつか本当の意味で、人は人に愛を与えることが出来る。それが人には出来るって私は信じている。そう、ゼノギアスのエリィは言った。
それがどうだ、もし昨日の私のように
ネガティブな思考ばかりを撒き散らしていたら
「そうか、別に凄くないのか」という感情を
わざわざ相手に植え付けていることになる。
それではあまりに悲しすぎるじゃないか。
正直、作品が面白いかどうかはわからない。
それでも、頑張っていた自分は確かにそこにいたのだ。
その事実を余すことなく知っているのは他でもない、私しかいない。
そんな自分の作品を、自分が愛してあげないで誰が愛するのか。
そう思うようになった。
別に完璧じゃなくてもいい。
拙いところばかりで構わない。
たとえそこに、自信がなくなって構わない。
自分の作品というのは、なまじ自分で手が加えられるがゆえに
いつからか「完璧でなければ許されない」なんて
そんな意識が働いていたのかもしれない。
自信なんかなくても、愛は持てる。
そう思えるようになっただけでも、またひとつ成長できたと思いたい。
Web拍手レス
あれ!?訓練場イベントの可愛い子誰!?@ますた~
銀詩(ぎんし)っていう、もともとは敵側の忍びで
椿のライバルキャラで、弦ノ助の追っかけだった子。
完成させるためにはそんな設定入れる余裕がなくてボツにしたけど
キャラは気に入ってたので、この子に訓練つけてもらうことに……
自分の場合は自信がないときほど自信ありそうに書いてしまいますね。せめて虚勢でも張らないと本当に価値がなくなってしまいそうで。「客観的に見てイマイチでも自分が楽しんでるからいいんです!(←この時点でもう楽しくない)」みたいに。
あと表立っては言いにくいことですけど、自信のなさを見せると喜んで叩き材料にする人が出てくる……これも自信のなさゆえの妄想ってことはわかってるんですけどね。
不安を言葉にできる人って、ちゃんと向き合ってるってことなわけで、すごいと思います。
色々とありがとうございます。
完璧なわけがないんだから、拙くて当たり前だと思えるようになって
だいぶ気が楽になりました。
私もひとりの制作者なら、不満ならべるよりも楽しんでる姿を見せたほうが
きっと誰にとってもいいですよね。