この世に、善行と悪行があったとして
果たしてその査定は誰が行うのか?という疑問が浮上した。
この日、私はスーパーの駐車場に車をとめて
そのままスーパーには寄らずに近くの駅へ行き
駅前のケーキ屋で母親の誕生日ケーキを買って帰った。
少なからず似たような理由で、用もないのに
一時的に近くへとめる人はごまんといるだろう。
さて、これは善行だろうか?悪行だろうか?
スーパーからすれば悪行のように見える。
スーパーに用がないのに駐車しているのだからそうだろう。
しかしここで理由を説明したらどうだろうか。
母親の誕生日ケーキという比較的同情を誘いやすそうな理由があり
駅前に車をとめることが困難故に少しだけ使わせてもらったとなれば
少しくらいなら仕方ないですね、と許されるかもしれない。
こうなれば悪行が許されたと見ていいのではないか。
ただこれがもし、ただ友達と遊びに~だったり彼女を迎えに~
なんて理由だと、同情を誘うどころか反感をかいそうである。
ここからわかるのは、善行か悪行かを決めるのは
関与した人(被害者)の采配、さじ加減ということだ。
この謎をもう少し突き詰めて考えて、ある種答えが出せれば
きっとイナナキアに役に立つ情報になる。
ゲームのシナリオにおける善と悪を描くのに
より説得力を持たせられるからだ。
ゲームのシナリオにでてくる悪は得てしてぶっとんだ設定が多い。
PLが悪側に共感してしまっては遊びづらいからだ。
これをどちらも共感するような作りだと非常にPLは困るだろう。
ラスボスがすぐ全てを無に還したがるのはそのせいだ。
しかしここにもう少し踏み込んで
別の観点から描いてみたいものである。